ティモール島について
16世紀以前は「リウライ」と呼ばれる王により、いくつもの小国にわかれていました。白檀が茂る山があり、ジャワやマラッカとも交易していたことが14世紀の中国の地理書に記されています。
(『島夷誌略』元の汪大淵(おうだいえん)撰)
16世紀に入り、西欧各国が東方を目指した大航海時代、この島が歴史的な転換期を迎えます。
《ティモール島Map》
ティモール島の歴史
16世紀・大航海時代、ポルトガルのドミニク会の宣教師によりカトリックが宣教され、ティモール島は植民地支配されていきます。
当時ティモール島の特産品である白檀(びゃくだん)は絹や鉱物資源など様々なものと交易をしていました。占領されポルトガルの法律が適用された地域では暴政と搾取が行われる傾向にあり、ティモール島での
人々の生活は困難を強いられたようです。
17世紀半ば、インドネシアを植民地にしていたオランダがティモール島の西側を占領。
ティモール島を巡りポルトガルとオランダで領土争いが起こります。
1859年リスボン条約によりティモール島の西側をオランダ領、東側をポルトガル領と分譲支配していきます。現在の国境が画定したのはちょうど百年前の1914年のことです。
特産品の白檀も乱伐により減少し、ポルトガルはコーヒー栽培を東ティモールの経済基盤としていきます。
軌道に乗った1930年代「海の満鉄」と云われた日本の南洋興発がティモール島に進出し、事業を拡大していきます。
労働者として多くの日本人移民が招致されました。さらに、日本は東ティモールで発見された油田を巡り、
オランダやオーストリアとも対立していきます。
太平洋戦争が勃発すると日本軍はオランダ軍を攻撃し、オランダ領インドネシアを占領します。
中立国ポルトガルはこれを黙認し、1942年~第二次世界大戦中は終戦までの3年半、ティモール島は
日本軍によって統治されました。この占領中も日本の敗戦後にも、ティモール島には数多くの悲しい傷跡が残されました。
第二次世界大戦後、多くのヨーロッパ諸国が植民地の独立運動に手を焼いて独立を承認したのと対照的に、ポルトガルは数百年にわたる植民地支配を放棄しようとしませんでした。
住民たちの不満は激化し独立への運動が高まります。1974年、ポルトガル本国でクーデターが発生し、
「植民地の放棄」を掲げた社会主義政権が誕生しました。
こうした中、東ティモール独立革命戦線(FRETILIN=フレティリン)が結成されました。
オランダ領東インドから独立したインドンネシアが西ティモールを占領し、同化政策を強引に進めたため、
東ティモール人の反インドネシア感情は強まります。その反動もあって、独立運動を側面から支えた
カトリック教会が住民の信仰を集め、革命の支えとなりました。
独立を目指す東ティモールはゲリラ戦法にてインドネシアに徹底抗戦しました。長い闘いのの末
1999年、国民投票によってインドネシア占領から解放され、2002年、ようやく国際法の上でもポルトガルから独立し、21世紀最初の独立国となりました。
350年という長きにわたり欧州列強のアジア進出による植民地政策、民族分断。南半球の美しい島々で
さまざまな悲劇がどれほどおきたことか・・・。
現在、西と東の統一を望む動きもありますが、島の統一は実現されていません。
timor Mask ティモールのお面
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インドネシアの多数派宗教はイスラム教ですが、ティモール島の人々の90%はキリスト教徒です。 もともとは部族ごとにリウライ(王様)が君臨し、集落ごとにそれぞれの信仰や風習があったのだと感じさせます。 このティモールのお面達。 オンラインショップupacaraうぱちゃらでは、まだあまり知られていないティモールの工芸品を少しづつですが紹介していきます。彫像文化の多様性を改めてご覧くださいませ。 ティモールのお面フォトギャラリーもご覧ください。 |